経済部 シニアエコノミスト
消費者物価を考える上で、上昇率が注目されています。例えば、金融政策の先行きを見通す上で、消費者物価指数の上昇率の役割が大きいからです。連邦準備理事会(FRB)は平均2%の物価目標を掲げています。また、欧州中央銀行(ECB)は2%の中期目標を、日本銀行も2%の物価安定目標を設定しています。このほかにも、主要国・地域の物価目標は上昇率によって定義されていることが多いと言えます。
その消費者物価指数は、コロナ禍後に歴史的な上昇率を記録しました。その後、コロナ禍後の供給側の活動が落ち着きを取り戻したこと、政策金利の引き上げなど需要を抑制したことなどから、消費者物価指数の上昇率は低下してきました。例えば、米国の消費者物価指数(CPI)は2022年6月に前年同月比+9.1%と直近ピークをつけてから、足元の2024年9月の同+2.4%まで上昇率を縮小させてきました。ユーロ圏の消費者物価指数(HICP)は直近ピークを2022年10月の同+10.6%にして、2024年9月には同+1.7%と、2%を下回るまで上昇率を縮小させました。日本の消費者物価指数(CPI)も、直近ピークの2023年1月の同+4.3%から2024年9月には同+2.5%へ上昇率を縮小させています。
物価が落ち着きを見せつつある中で、景気の先行き懸念が強まったこともあり、各国・地域の中央銀行は金融政策の正常化に舵を切っています。FRBは2024年9月に利下げを開始し、ECBは7月に利下げを開始、9月に追加利下げを実施しました。日本銀行はFRBやECBの金融政策と方向が異なり、3月にマイナス金利政策とイールドカーブ・コントロール政策を解除し、7月に追加利上げを実施しました。こうした中で、物価抑制から景気下支えに、世の中の関心が移りつつあります。
ただし、日常生活を送る上では、上昇率とともに水準も重要です。なぜなら、たとえ消費者物価指数の上昇率がゼロ%になっても、切り上がった水準はそのままだからです。
例えば、足元の2024年9月とコロナ禍前の2019年9月を比べてみると、米国のCPIは+22.8%、ユーロ圏のHICPは+20.2%、日本のCPIは+8.8%と、水準を切り上げました。足元の物価上昇率がゼロ%で落ち着いたとしても、この消費者物価指数の水準の上昇、すなわち生活費の高騰の影響が残ります。
この物価高の痛みを軽減するためには、賃上げが欠かせません。米国の平均時給は2019年9月から2024年9月にかけて+25.5%上昇しました。ユーロ圏の妥結賃金は2019年Q2から2024年Q2に+14.6%、1人当たり雇用者報酬は+18.1%と上昇しました。日本の現金給与総額(名目賃金)は2019年8月から2024年8月にかけて+7.0%と上昇しました。これらを踏まえると、物価上昇の影響を除いた賃金上昇が米国ではプラスだった一方で、ユーロ圏と日本ではマイナスになっていると考えられます。もちろん複数の要因があるものの、米国の個人消費の底堅さの背景には、実質賃金の回復が一因だったとみられます。
欧米では、生活苦から賃上げや労働環境の改善を求めたストライキが、たびたび実施されてきました。日本では、ストライキの実施はあまり聞かないものの、2024年度の春闘で歴史的な賃上げが実現しました。2025年度に向けても、いくつかの企業が大幅な賃上げを発表したことが報じられています。しかし、日本と欧州で共通することは、生活苦からの回復は道半ばということです。
実際、こうした物価高騰に伴う生活苦は、欧州では既存の政治への不満につながり、政権交代が多くみられました。米国の大統領選でも、物価高騰は争点の一つになっています。また、日本でも10月末の衆院選で、与党が15年ぶりに過半数割れとなりました。欧州では気候変動対策など既存政策の揺り戻し、日本では政治と金の問題が注目されるものの、物価高騰に伴う生活苦という課題もまた大きかったことは事実です。こうした状況では、政府の支援策も重要になります。しかし、既存の政治に対する不満が政治の不安定さをもたらし、それが必要な時期に必要な支援策の実施を遅らせるリスクがあります。
物価上昇率が2%前後で落ち着くことは重要です。しかし、上昇率の落ち着きはまだ道半ばであり、賃金上昇などによって実質賃金の水準を回復させていくことが欠かせません。経済自体の先行き不透明感に加えて、政治の不安定さが加わることで、実質賃金の回復が遅れることが懸念されます。