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【#5】第2回 EUの「進展」とイギリスの乱

国際部 シニアアナリスト


コモディティ市場との20年。経済部シニアアナリスト鈴木直美


イギリス留学当時、同国の政治制度に興味を持った私は、報道だけでは飽き足らず、ビッグベンにある図書館にも出入りするなどして、徐々に政治に浸る日々を送ることになりました。また、フラットメイトやクラスメイトに特にEU加盟国の人が多かったこともあって、自然とEU政治の話になり、「国を超えた政府的な存在」に興味津々。最初はEUのことをよく理解していなかった私は、彼らから本当に多くのことを学びました。といっても、大学付属のパブやシェアキッチンでビールを飲みながらでしたが。

 

幸運なことに1970年代に欧州委員会委員を務めた方(イギリス人)と個人的に交流があり、彼が委員として行ったこと、彼が考えるEU加盟国としてのイギリスのあるべき姿、はたまた彼の委員時代にヨーロッパ諸国の共同体が目指していたことと、当時のEUが徐々に乖離している話など、会うたびに新たな学びがたくさんありました。今、彼から学んだことを生かし切れているかといえば……、そうではない部分については、彼に叱られるかもしれません。でも、イギリスに住みながら生きたヨーロッパの政治を学べた当時の経験は、貴重な体験だったことに間違いはないと思います。

 

さて、EU。1993年にEUとして創設されましたが、前身組織の設立は1950年にシューマン外相(フランス)の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)創設提唱による1952年のECSC創設までさかのぼります。その後は1967年に欧州共同体(EC)として主要共同体がまとめられて総称されるなど、戦後から現在に至るまで名称や制度を変えながら絶え間なく変化を遂げてきました。加盟国も最初の6か国から現在は27か国まで拡大。ウクライナやモルドバ、そしてジョージアや西バルカン諸国の加盟がいつになるかわかりませんが、将来的には30を超える巨大な連合になる見込みです。

 

ECSCが発足した頃は、政治と戦争資金になり得る鉄鋼・石炭を欧州横断的に協調しながら管理することで、ヨーロッパで二度と戦争を起こさないという信条を守ることが優先されていたようです。ただ、加盟国数が増えるにしたがってイデオロギー的なものでは収拾がつかず、EUの「進展」を目指していく度も改正されるEU条約の中で、徐々にルールや規制で加盟国を「管理」する側面が表面化。そして国を超えた連合体制に暗雲が立ち込めることになります。

 

特に、2004年、10か国の中欧・東欧諸国が一度に加盟したことは、近年のEU史の分岐点という位置づけになったのではないかと考えています。当時一留学生だった私でさえ、日常生活における変化を感じたのは事実です。例えば、イギリス人が占めていた小売店やレストラン・カフェの従業員に東欧出身者が多くなったことで、食が「不味い」と酷評されることもあったイギリスの食事情の劇的な改善を目の当たりにしました。私は大歓迎でしたが、職を奪われたイギリス人が、EUに加盟することの意義を疑問視したり、EUを敵対視したりすることにつながったと思います。

 

また、職を奪われただけではなく、欧州委員会が加盟国を「管理」するために政策面でのルール作りが加速したのもこの頃からです。今でこそ加盟各国それぞれの事情を考慮する傾向も(ある程度)垣間見られますが、当時はトップダウンの要素がより強かったように思います。これが加盟各国の国民や政府の間で「主権」を奪われたというネガティブな感情につながり、それを政治的に最大限利用したのが保守党政権。高まる国民からのEU離脱の声を受け、2014年に当時のキャメロン首相が国民投票の実施を検討すると発表。いわゆる「イギリスの乱(Brexit)」の始まりです。

 

キャメロン政権はEU側と協議を重ね、何とかイギリスに都合のよい新たな関係を築こうとしたものの失敗。Brexit交渉の時もEU側が「cherry pick(いいとこ取り)」はさせないと何度も繰り返していましたが、イギリス国内では「主権を取り戻す」という右寄り色の強いイデオロギーで正当化されていきました。また、サッチャー元首相の「I want my money back」や「No, No, No」発言で、イギリスは拠出金の払い戻しで他の加盟国よりも優遇されていたにもかかわらず、イギリスが加盟国でいることの恩恵に焦点が当てられない国民投票キャンペーンが展開されました。その中には、euroを採用したらコインからエリザベス女王の肖像画が消えてしまう!といったような偽情報も多々ありましたが、保守党のキャンペーンで一番効いたのがBrexitで漁獲の自由度が高まることとNHS(国民保健サービス)が改善されるという内容でした。

 

折しも2015年頃から一気に表面化した不法移民問題が追い風となって、ヨーロッパ各地で極右旋風が吹き荒れていた中、イギリスで2016年6月23日に国民投票を実施された結果、僅差でEU離脱が多数派に。東京にいた私も、寝ずに各地域の投票結果のライブ映像を視聴しながら、次々と発表される離脱優勢のニュースにびっくりしたものです。

 

国民投票に法的拘束力がある訳ではありませんでしたが、キャメロン首相はBrexitすることを決定しました。その後のすったもんだは割愛しますが、2020年1月にイギリスは正式にEUを離脱。ただ、国民投票からのEU離脱決定を経て新型コロナウイルス感染症の危機が発生する過程で、保守党政権の不甲斐なさが露呈し、2024年7月4日の選挙でイデオロギーに支えられた保守党政権が終了。14年ぶりに労働党がイギリス政界の中心に復帰しました。ここからイギリスの対EU政策が「120度」ほど転換しますが、それはまた後日。

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